今度は僕に背中をあずけて






 組織の中にある雲雀の部屋は整然と片付けられ、無臭である。その部屋へ帰ると、雲雀は手にした荷物を無造作にベッドへ投げ出し、部屋取り付けのシャワールームへ向かった。
蛇口を捻れば設定したとおりの熱い湯が身体を濡らす。そうして漸く一息つくと、目の前にある鏡の中の己を睨んだ。
 任務が終わると何をするよりも先にシャワールームへ直行し、浴びた血を洗い流す。それがここ最近の習慣となっていた。身体に付着した他人の血の感触やその匂いが不快でならないのだ。昔はそんなことなかった。特に血の匂いを好みはしなかったが気にもならなかった。それが今は、弱者の血が己まで弱くする気がする。
「・・・くだらない」
 鏡は現実しか映しはしない。そこに在るのは傷一つない、見慣れた自分の身体だ。すっかり曇ったそれから目を逸らすと雲雀はシャワールームを後にした。




 ベッドルームへ戻ると、つい今しがた洗い流したはずの汗と血の匂いが僅かに鼻をついた。顔をしかめて不機嫌さを隠すことなくその匂いの主に近づけば、雲雀のベッドに腰掛けたそれは、能天気な笑みで雲雀を迎えた。
「もういいのか?意外に早かったのな」
「…君、何してるの?入れた覚えは無いんだけど」
「まぁいいじゃねーか。細かいこと気にするなって」
「黙れ。用が無いなら出ていけ」
癇に障るマイペースにとり付くしまも無しに答える。匂いの主―山本武は「しゃーねーな」と頬をかきながら封筒を差し出した。目線で読めと促され封を開けると、数枚の書類に見慣れた文字が並んでいた。
「…綱吉から?」
 それは名目上雲雀のボスとなった青年からの物だった。山本の様子からすると仕事の報告の後そのまま此処へ来たのだろう。
「ああ、次の仕事。雲雀と、俺で」
 最後付足されたような言葉にピクリと雲雀の肩が動いた。
「決行は5日後で時間は・・・・雲雀?」
 気付いているくせに山本は何も言わない。ただ真っ直ぐに見据える目が何もかもを見通しているようで、気に入らなかった。
「必要ない」
「へ?」
「この程度の任務僕一人で十分だ。二人も要らないよ」
「んな無茶な…って、雲雀?」
「用が済んだなら出てけ」
 まだ文句がある様子の山本を無理やり立たせて部屋から追い出す。己よりも体格のいい男を動かすのは骨がいるが、相手が戸惑っていればさして苦ではなかった。眼前で扉を閉め、更に鍵をかける。
「お〜い、雲雀サン?」
「うるさい。出て行け」
「ンなこと言われても。なぁ?」
「大体君は、僕が折角持ち込まないようにしている血と汗の臭いをプンプンさせて…、そんなに噛み殺されたいの?」
「ああ!」
 やっと得心がいったというように声を上げる。簡単に思い浮かぶその動作が雲雀を苛立たせた。
「そりゃ悪かったな。だけど流石にその仕事一人は無茶だぜ〜」
「しつこいのは嫌いだ」
「じゃあ、勝手に着いてくのは自由だろ?」
「…勝手にすれば」
「オッケ。じゃあまた明日な〜、雲雀」
 気配で山本が去っていくのを感じて、雲雀は漸く息をついた。肩に力を入れていたのだと初めて知る。
 ドアを離れてベッドに向かう。きれいに整えられていた筈のそこは、山本が座っていたことによりシーツが乱れてしまっている。部屋には不快な血と汗と、それから微かに混ざる山本の匂いが充満していた。
「……出て行け…」
 じわじわと侵食されていく。
 シーツを再び整えても、窓を大きく開けても、それらは無意味なことなのだ。




 雲雀は次々と変わる映像を見ていた。
現実というにはまとまりがなく夢というには鮮明すぎるそれは、まるで走馬灯のように過去を並べ立てた物だった。それも、雲雀の神経を逆撫でするような記憶ばかりが選ばれている。意思とは関係なく廻る映像の総てに山本の存在が感じられた。
 ―こんなにもあの男と時を共有してきたのか。
 純粋な驚きは、中学時代の記憶へと差し掛かったところで衝撃に変わる。いつの間にか映像は順当に時間を遡るようになっていた。
―パシリッ
 小気味良い音を皮切りに映像が音声をも併せ持つようになる。
今では良く手に馴染んだ指輪を初めて手にした頃の記憶だ。理解するが早いか、記憶の中の男が話し出す。
『そのロン毛はオレの相手なんだ。我慢してくれって』
『邪魔する者は何人たりとも、噛み殺す』
 止めろ、止めろと念じるのも虚しく、映像の中の雲雀≠ェあの時の自分と同じように山本武への興味を強くするのを感じる。
(どうして……)
 そう思わずには居られなかった。確かに彼は、あの時驚くほどの動きを見せた。戦ったらさぞ面白いだろうと雲雀に思わせた。だが、それが何だと言うのだ。そんな奴なら他にも大勢居た。師匠であるディーノに鼻持ちならない六道骸、それから沢田綱吉。後にも先にも、そう 掃いて捨てる程に。しかし、その中の誰にもこんな感情を抱くことはなかった。
(何、これは。焦り・・・恐怖?)
思わず胸を押さえた。
―侵食する、熱。
(冗談じゃない)





* * *




 今回の任務(ミッション)は暗殺。ターゲットはボンゴレの機密を保持したスパイ。その男が敵対マフィアに情報を渡す前に殺せというものだ。
 任務地に赴いた雲雀は、感情を押し殺して其処に立っていた。無性に苛々するのはどんよりと厚くかかった雲のためか、もしくは隣りに在る男のためか。どちらにせよ任務に感情など無用だ。
「ひっばりちゃ〜ん。ンな怖い顔してないでもうちょっと気楽にいこうぜ」
「・・・・」
「・・・また無視かー」
 ポリポリと頬を掻く山本に見向きもせず、雲雀はただ任務決行の時を待った。
今だけではない、5日間雲雀は山本を徹底的に無視し続けた。無視というには少し甘い。それは意識の外へ山本を追い出す行為だった。
雲雀は、己が確かに山本を怖れていることを認める他なかった。無遠慮に心へ踏み込んでくるあの男を恐怖していると。
―ならば、鉄壁の守りで心に入れなければいいのだ。それでもう、己の弱体化を感じることはない、はずなのだ。
「なぁ、雲雀ー」
「・・・・・・」
「いい加減話してくれって。オレ、独り言みたいで寂しくね?」
「・・・うるさいよ」
「お、やっと返事してくれたなー」
 あまりのしつこさに仕方なく声を発すると、むけられた緊張感のない微笑み。押し殺したはずの感情が漏れ出す。苛々する。
「大体、人を殺しに行くっていうのに気楽にしてろっていうのかい?」
「はは、なんか雲雀の台詞じゃねーみたいだな」
 反射的動作で山本に向かってトンファーが振り上げられる。不意を突かれ直撃すると思われたそれは、しかし直前で止まった。
「・・・雲雀?」
「本当に君は苛々するね」
「オレは何かした覚えはないんだけどな」
「その表情(かお)が、」
―気に入らないんだ。
言葉を途中で切り踵を返した雲雀は、そのまま黙って歩き出した。
「お、おい、雲雀?」
「時間だ。君は手を出すな」
焦った山本の声に背を向けたまま答えると、その姿はゆっくりと遠ざかっていく。山本は、それをじっと見つめているしか出来なかった。
「まいったなー。…なぁ?雲雀」





 任務地は相手マフィアとの情報受け渡し場所である廃墟。いかにもといった様子の其の場所は、ご丁寧に数メートル先も見えない。闇の中で革靴の音を消すことなく響かせて両腕を振るった。周囲に増えていく屍の群れ。其の中にまだ標的の姿はなかった。
 ただ名前と罪状、それから写真だけが記載された書類。普段は指令として受け取り、気持ちが動けば依頼を受けた。今回例外的に標的を調べたのはその顔に、名前に覚えがあったからだ。同じ組織とはいえ自分が直属の部下でもない雑魚をいちいち記憶している筈がない。
―ならば、何故?
『オレの部下にさ、おもっしれー奴がいんだよ』
「っ!」
浮かんだ笑顔にトンファーをぶち込む。あの時見せた笑顔と先ほど浮かべた笑い。その2つがあまりに隔たりがないことが雲雀をイラつかせるのだ。
 僅かな気配を感じ、直感のままに顔を向けると、不自然な程無防備に立ち尽くす標的と眼が合った。
「ひ、雲雀さん・・・!?」
ソイツは狼狽した声を上げる。
「どうしたんだい、武器も構えずに。死ぬ覚悟はもう出来たのかい?」
「お、俺は・・・お願いだ、た、」
助けてくれ
そう続くだろうと思われた震える唇は、ニヤリという形容が似つかわしい不快な笑みを形作った。
「!」
それと同時に背へ当てられた冷たい感触。総てを理解した雲雀は、相手が勝どきの声をあげる前に、嘲りの笑いを響かせた。
―あの男を来させなくて良かった。
 これは良心とやらに漬け込む安っぽい罠だ。
直後続く銃声。それから廃墟での戦闘は総て幕を閉じた。





* * *




 雲雀を見送った山本はごそごそと胸元を探り、1枚の写真を取り出した。
『全く、あんたは何でも其処にいれちまうな』
「・・・っ」
 それを指摘したのは他でもない、写真に写っている男だ。今回標的となった元部下と、たった1枚写した写真だった。
 カルマ。男が残した痕跡は、ボンゴレ内に何一つ残されはしない。指令を下された時に渡された書類さえ既に処分した。だが、この写真だけは死ぬまで持っていようと決めた。細かいところまで見ていてよく気が利いて、小さい嘘さえつけないような(例え本当はでっかい嘘をついていたとしても)、その男を自分だけはずっと覚えていようと誓ったのだ。だから、自分の手で始末を付けたかった。
 だが、本当はその男を殺したくなかった。手に掛けずに済んでほっとしている自分がいる。
「・・・まさか、な」
 まさか雲雀は自分があの男を殺せないだろうことを解っていたのだろうか。自分のために―。
 だが、と思う。他人にはほとんど無関心な雲雀だが、山本への態度はそれを越えて、嫌っているようにさえ思える。
(だけどなー、それがなー。・・・はぁ)
心中溜息をつくと、大きく息を吸い込んだ。もやもやしてわけが解らなくなったときにはコレがいい。同じことを獄寺はタバコを使ってするけれど、山本には清々しい空気があれば充分だ。
視界がクリアになれば見えなかったものも見えるようになる。冷静になった頭が思い出したのは親友の言葉だ。
『山本知ってる?』
 彼がどういうつもりでそれを自分に言ったのかは分からない。だけど、きっと山本が悩んでいることもその原因も、きっと解っていたのだろう。
『誰かが前に言ってたんだ。【好き】の反対は【無関心】だ、って』
かれはにこにこと微笑(わら)ってそう告げた。
「・・・ツナには敵わないよなー、ホント」
 何一つ解決していないはずなのに、彼の言葉を聞くとなんだか大丈夫な気がする。自分でも何とか出来そうな気がしてくるのだ。なんとかしよう、そう決意した。
 通常より少し長い。そう感じさせる沈黙の末、銃声が鳴り響いた。雲雀は銃を使わない。そして、任務の内容からして銃撃戦になることはない筈である。音を聞くと同時に山本は雲雀が消えた方へ駆け出した。





 道標のように倒れた人を辿っていくと、その終着点には3人の人物が倒れていた。手前で死んでいるのは見知らぬ男、奥で倒れているのは標的。その間で蹲るようにして倒れているのは、雲雀だった。
「雲雀っ!」
 慌てて抱き寄せると、多少荒いが呼吸をしていた。目立った外傷は背後から受けたと思われる銃痕のみ。
「・・・だまし討ち、か?」
 雲雀の傷と状況がそれを物語っていた。
 奥で倒れている男の最期の表情(かお)は、ちょうど陰になっていて見えなかった。だけど、それでいい。
 雲雀を抱いた懐のその奥、ポケットの中で写真がかさりと音を立てた気がした。
―細かいところまで見ていてよく気が利いて、小さい嘘さえつけないような
「オレは、そんなお前をずっと覚えてるぜ」
 そうじゃないその男を山本は知らないから。雲雀が、知らないでいいように独りで戦ったから。




* * *




眠りから覚める瞬間は嫌いだ。しかし、今この時の覚醒は何故だか不快でない。
「?」
 かわしきれなかった最初の銃撃。其の傷から鋭い痛みを感じ、眉を顰めて瞼を上げるが視界は暗いままだ。
「ちょっと、痛いんだけど」
 次第にはっきりしていく視力と嫌というほど記憶に馴染んだ匂いで、視界を覆うものが男のシャツであると知る。
 密着した身体を僅かに離されて見えた男の顔は始めてみる表情(もの)だ。気まぐれにその頬へ手を添えると男の瞳はそれを追って、最後に硬く閉ざされた。
「泣きそうな顔だね。・・・最初からそうゆう顔をしていればいいんだ」
「こんな時に何言ってんだよ。銃声聞こえてしばらくしても出てこねーし、行ってみれば血ィだして倒れてるし・・・」
 ごつごつとした男の手がひばりの手を握った。
「僕がアレくらいで死ぬとでも―・・・?」
「そう、思ったぜ」
 不意に開かれた眼は泣きそうなそれではなく、雲雀の嫌いな何もかもを見通しそうなほど強く真っ直ぐな瞳。
 ピクリと眉が上がる。明らかに変化した雲雀の空気。しかし山本は構うことなく続ける。
「アンタは、偶にすっげー優しくて、」
「・・黙れ」
「嘘みたいなところで信じられねぇほど人間くさいから」
「黙れ!勝手に僕のことを解ったような口をきくな」
 声を荒げるのと同時に、つかまれていないほうの手で山本の襟元を掴みあげる。無理な体勢のために傷が開いたのか、血の匂いが香った。
「・・・・・・わかんねーよ。だって、雲雀全然オレに心見せてくんねーじゃん」
 上から落ちてくる声が思いがけず震えていることに驚き、頭が急速に冷えていく。冷静になれば己の手を握る男のそれは汗ばんでいた。
飄々と血と汗の匂いを纏っていた男が、今僅かな血の匂いに怯えているのだ。
「ハハッ、君もなかなか解らないヤツだね」
そう思えば、なぜか笑いが込上げる。この状況を、そして心境を、滑稽と謂わずしてなんと呼ぶのか。
「・・・さっき、君の顔が視えたよ」
掴んだ男のシャツを離すと目覚めた時よりも強く抱きしめられる
。 「なぁ雲雀。今度はオレにあんたの背中守らせてよ。なぁ?」
ちょうど視界に入る男の襟元。ひばりは己が掴んだことではっきりとそこに残った皺を見つめていた。