谷底から吹き上げる上昇気流に導かれるままに、風は天を仰いだ。競うように瞬く星々にそっと微笑みかける。この夜空の向こうでは、今頃恋人達が久しぶりの逢瀬を楽しんでいるはずだ。
星を見つめたまま黙り込む主を気遣うようにリーチが、キキィと鳴きながら顔を覗き込む。風は案ずることはないと、その頭を撫でてやった。


「羨ましくなどないですよ、だって…」


言葉の途中で風は異変に気付き、辺りを見回した。ひんやりと微かに気温が落ちて、夜の世界がみるまに白に飲み込まれていく。風は浮かべた笑みをさらに深くした。


「ほら、私の織女がやってきました」


風の言葉に、空気が不機嫌に揺らぐ。風の心が弾む。


「誰が、誰の何だって?」
「すみません、マーモン。でも、こんな恋人達の夜に会いに来ていただけたので、舞い上がっているのですよ」
「フン、『七夕』かい?そんなアジアの行事、僕には関係ないね」
「そうかもしれませんね。…それでご用件は?」
「仕事に決まってるさ。風、君の暗殺だよ」


淡々と紡がれた言葉に、風はちらりとも動じることなく「そうですか」と呟き再び星を見上げた。頭上には牽牛星と織女星が変わらぬ位置で煌めいている。














昔、そう、まだ私達が出会ってどれほどもたっていないころ。戯れに投げた質問を、彼女は覚えているだろうか。


「“バイパー”ですか、変わったお名前ですね」
「だからなんだい?」
「偽名なのでしょう?あなたの本当の名はなんとおっしゃるのですか」


自分としてはそんなつもりはないのに、よく“底意地の悪い”と形容される微笑を浮かべて訪ねると、彼女の声音はぐっと低くなった。きっと、眉間によせた皺も深くなっていただろう。後で気付いたことだが、程度の差はあれども、彼女はいつも眉を顰めているのだ。


「だからなんだって言うんだい?名前なんて、個体を認識するためのただの記号さ。何を、誰を指しているのか共通理解していればそれでいいのさ。大体、此処にいる奴らなんて大体が似たようなものだろ」


苦笑して同感の意を示すと、バイパーは黙って背を向けていってしまった。
私も、追いかけてまで渡す言葉など持っていなかった。本当に、ただの興味だったのだ。まだ。














「また、貴女と技を競うのも、いいかもしれませんね」


すぅっと心に刃を纏い、構えをとる。そうすれば、もちろん対する彼女も臨戦態勢に入るはずだ。


「・・・・・・」
「・・・マーモン?」


しかしその思惑は裏切られ、マーモンの纏う雰囲気はいくら待っても平静のそれから変わらなかった。否、変化はあった。「苛立ち」という変化である。が、理由がわからない風は当惑するしかなく、それにマーモンの苛立ちはさらに募る。


「おまえ、僕を嘗めているのかい?」
「は?」
「僕が気付いていないとでも思ったの?君の暗殺を依頼したのは君自身だろう」


吐き捨てられたセリフは疑問ではなく、確信を持ったそれに風はただ苦笑を浮かべるしかなかった。


「ばれていましたか」
「フン・・・、ヴァリアーの情報網を甘く見ないことだね」


それきり黙ってしまったマーモンの沈黙が、「なんのつもりだ」と雄弁に風を責める。いつもより深く眉根をよせて真っ直ぐに自分をみつめる。他人に執着しない彼女の瞳に色濃く映っているのが自分だけだという甘美にくらくらする。
彼女は、風と愛しい人を妨げる天帝であり、愛づべき織女であり、バイパーであり、マーモンであり、・・・・・・彼女を一番的確に表す言葉を風は知らない。
どう取り繕うかと必死に考えていたはずなのに、空気を揺らしたのは丸裸の言葉であった。


「だって、こうでもしないと貴女は僕と会ってはくれないでしょう?」
「何を・・・」
「聞きたいことがあるんです」


今度は応えてくれるだろうか。今は言える、今だから言える。「それ」はただの記号ではないと。


「貴女の、本当の名前はなんですか?」


疑問から興味は生まれ、興味は育てば恋慕にすら変化する。きっと、最初に問うたあの瞬間に風は捕らわれた。
知れば必ずさらに深く絡みとられる。しかしそれでもいいと思った。それがいいと、願う。
無意識にか、後ずさろうとするマーモンの細腕をさっと掴む。
今は追い縋ってでも聞きたいのだ、愛おしい人を表す最上の言葉。








言葉の魔力
その秘められし力に気付いたら



「私にだけ教えて」