*多少性的描写を含みます。閲覧は自己責任でお願いします。







僕には見えない君の居場所






  それは遠い記憶。
 ヒノエは緑深い山を駆け、広大な海に浸り、豊かな風を受け、熊野で過ごしていた。豊かな自然に恵まれた熊野の季節が移ろうのと同じくして、ヒノエは成長した。そうしてヒノエは熊野の地に育まれた。
―ヒノエは熊野、熊野はヒノエであった。
 父親が統べる水軍衆の男達に身の回りの世話をする女達、それから遊び相手の子らと、ヒノエの周りには沢山の人が存在した。しかし、“彼”ほど幼いヒノエの記憶に強く焼きついた人物は居ない。
 日に焼けた熊野の男達とは違う陶磁のように白い肌と、貧弱ではないが華奢な身体。それだけでも異彩を放つには充分すぎる容姿。そして何より鮮烈なのは陽に透けると黄金に輝く絹糸の髪。普段は墨染めの衣に隠されたそれを、ヒノエはただ美しいと思った。
 偶に父の下を訪れてすぐに姿を消すその人は、父の弟であるらしかった。
 幼い頃彼と会話をした記憶は殆どない。その場に居合わせたのも単なる偶然だった。
真夜中、厠から自室へと続く廊下。いくつかある部屋の一つから明かりが漏れていた。新月で光のない夜にそれは酷く際立って見え、光に誘われる虫のように思わず引き寄せられた。
 僅かに開いた戸の隙間からこっそり中を覗くと、父と件の人が向き合って何か話していた。ヒノエに背を向けた父とは違い、その人の表情(かお)は良く見えた。衣から放たれた髪はゆったりと艶やかに波打ち、空に不在の月は此処にあると思った。
 会話の内容は当時のヒノエには難しく、良く覚えていない。しかし、留まらないのかと尋ねた父に答えた男の言葉と表情は、どれほど時が流れようと忘れることはない。  ――男は柔和に微笑み、穏やかな声で言った。
『僕は熊野に厄災しか招かない。・・・此処にいてはいけないんですよ』

 ふと視線を流した男と眼があったような気がして、振り向きもせずに自室へと急いだ。
自分は逃げたのだと感じた。【何から】と問われても答えることなど出来ない。ただ恐ろしく寂しく、そしてどうしようもなく――悔しかった。





***





 その山道は慣れ親しんだもので、考え事をしながらでも足は躓くことなく前進してくれる。
 ヒノエの瞳は前を行く墨染めの衣を捉えていた。あの頃から変わらない色の衣に隠しているものが、今のヒノエには解っている。無論、美しい金色の髪ではない。
(しかし姫君も意外と―いや流石、かな。侮れないね)
 昨夕の会話を思えば、龍神の神子だという無邪気な少女の印象を改めざるを得ない。それこそが今、ヒノエを占める思考の始まりなのだから。悩みつめた顔をしてヒノエを訪ねた彼女は言った。

『ヒノエ君、弁慶さんって―』


 じゃり、と思いがけず近くでした音に思い出していた少女の声が遮られた。
意識を引き寄せると、今当に思考の渦中にあった人物がヒノエを見ていた。

「なんだい?野郎に見つめられても嬉しくないんだけどね」

愛らしい姫君ならば大歓迎だけど、と続けると弁慶は予想通りわざとらしい溜息をついて見せた。

「その様子では具合が悪いわけではなさそうですね」
「は?」
「君が遅れているから、その姫君が心配していますよ」
「あ、」

言われて前を行く集団の中の望美を見ると、隣を歩く朔と話しながらもちらちらとこちらを伺っている。ヒノエの様子を気にしているのは誰から見ても明白だった。

「っちゃあー」

 そんなつもりはなかったのだが、気に病ませてしまった。なかなかに聡い少女だ。昨日の今日でこの態度では、想いの種など解っているだろう。
(悪いことしたかな)
 額に手をつき頭を垂れると、今度こそ本物の溜息をつかれる。面を上げたヒノエに構うことなく弁慶は歩を進めだした。小走りに掛けてその隣に付くと、彼はそれを受け入れた。

「俺とした事が迂闊だったな。可憐な花を哀しませるなんてね」
「そう思うのなら夜毎消えるのは止めるべきですよ。それでは心配にもなります」
「へぇ・・あんたが?」
「いえ、望美さんが」

 ヒノエの為すことに口を出す弁慶が珍しく、戯れめかして挑むように問いかけるも、弁慶は癪に障るほど爽やかな笑顔できっぱりと言い放った。

「・・・・それは難しいね。コレでも多忙の身なもんで」

 小さく舌打ちをして答えてやれば、弁慶はくつくつと笑った。
 ふいに笑いを収めると、ふざけた声音から調子を変えて穏やかに言う。

「・・・数多の花の間を飛び回って、蜜を吸い枯らすのもいい加減にしたらどうですか?」

 その言葉が持つ意味に、ヒノエは眼を見開いた。
 ――どうしてあんたはっ、
 些細な会話からどうしようもなくこの男の本質が垣間見える。

「・・・あんたにとって蝶は花を枯らす存在(もの)かい?―花もその蜜を運ぶ虫がいないと生きていけないものだぜ」
「だから己は必要されていると?ふふ、君らしく不遜ですね」

 ヒノエの口調も発する空気も変化したことに気付いているはずなのに、弁慶は意に介した様子もなく相も変わらず微笑んで答える。いつもそうなのだ、この男は。それがヒノエは気に入らなかった。

「あんたはっ、・・・――」

 声を荒げながら途中でそれを閉ざして黙り込むと、流石に不審に思ったのか顔を覗き込んできた。

「ヒノエ?」

 その顔に向かって不敵に微笑んでやる。

「いや。今夜はあんた達の宿にお邪魔させてもらうことにするよ」

 そっちがその気なら、見てろよ。
 今度は弁慶がめを見開く番だった。そのまま数瞬間立ち止まった弁慶に構うことなく、ヒノエは歩を進める。遅れてきた男がその隣に付くことはなかった。


『ヒノエ君、弁慶さんって―――』

 ―少女の声が言う。

『弁慶さんって―生きてるように見えない』

全くその通りさ。




「望美、それ、は」

 ヒノエの狼狽を不審と捉えたのだろう。望美は弁解を告げるように慌てて言葉を紡いだ。

「あのね、なんていうか・・・そう、生きたがって≠ネいように思うの」

 勘違いかもしれないけれど無性にそんな気がして仕方ないと告げる、望美の表情や声音は段々と切実に変わっていった。拳は胸の前に握られ、指先が白くなっている。それに気付いても、ヒノエにはその強張った心を解してやれる言葉などかけられよう筈もないのだ。
「ああ。良く、解るよ」

 それはヒノエが昔から、嫌というほど思い知らされていることだった。解ってはいても何一つ変えることは出来ない。そんな己に今更どんな言葉があるというのだ。


「ヒノエ君?」
「望美、どうしてそれを俺に言うんだい?」

 思わず漏らしたのは自嘲を孕んだ問い。我ながら情けなかったが、心底疑問でもあった。望美はヒノエと弁慶が縁者だと知っていただろうか。―もし、知っていたのだとしても弁慶と親しいものなど他にいる。九郎や、景時にでも話せば済むはずだ。もしくは、彼女が信を置いているだろう幼馴染殿に相談すればいい。

「だって、ヒノエ君は弁慶さんに生きたがって欲しいって思っているでしょう?」

だが逆に望美は何故当然のことを聞くのだと、驚いた様子でヒノエを見たのだ。





 あれは衝撃だった。

 陽も落ちて久しいというのに建物内でたった一つ、未だ明かりの漏れる部屋を覗く。幼き時に見たあの日のままに月光の輝きが其処にあった。ヒノエは意図して、望美に見せたのとは別種の自嘲を漏らす。それはいつしか臆病になっていた自分への叱咤だった。
 戸の立てる音も憚らず中へと踏み込む。文書に視線を落としていた弁慶が、彼にしては珍しく驚きを顕にヒノエを見た。

「ヒノエ・・・」
「邪魔させてもらうよ」
「どうしたんですか、こんな夜更けに」

 やや遅れて我に返った弁慶は、話しながらさりげなく手にした文書をしまう。ヒノエはそれに目敏く気付いた。弁慶もそんなこと解っているだろう。気付いても何を思っても干渉しない、皮肉めいた揶揄をもってからかうだけ。それが今までのヒノエの、ヒノエと弁慶二人の在り方だった。ヒノエは一歩を踏み出し、弁慶の前で止まった。それではいけないのだと、やっと気付いたのだ。

「俺に心配かけるな≠ニか言っておいて、実はあんたのほうが心配かけてるんじゃないの」
「仮にそうだとしても、君には関係のないことですよ」
「ふぅん。・・・で、それはどこの間者からの報告だい?」
「・・・なんのことですか?」

 ともすれば見落としてしまう僅かな戸惑いの後、弁慶は見事に完璧な微笑を形作る。柔和だが、追求を許さない強固な笑み。『お前には関係ない』という、それは明確な拒絶であった。

「そうだね、確かに俺には関係ない」
「そ、」
「だから俺は俺の好きなようにするね。あんたの都合なんて、関係ない」

 絶句した弁慶が反論を口にする前に、ヒノエは弁慶の細い肩を押して床に縫い止めた。身体に走ったであろう衝撃に耐えるため眼を閉じたのを今が好機とばかりに唇に喰らい付く。ぴくりと一瞬震える身体。ヒノエを押しやろうとする動きも、しかし唇を離す頃には止んでいた。

「抵抗しないのかよ」
「どうせ君は止められませんよ。無駄なことはしない主義なんです」

 にっこりと形だけ笑う弁慶に今度はヒノエが絶句する番だった。ヒノエを見上げる弁慶の眼は何もかもを享受した、そのくせ総てを諦めた色だった。空ろに、こんな行為に何も意味何て在りはしないのだとヒノエに語る。だが、そんな弁慶の反応など、ヒノエにも既に解っていたことだ。

「よく解ってんじゃん。でもそれだけじゃ足りないな。受け入れるだけじゃなくて・・・」
「・・・なんですか?」
「いや、総て口に出すのも愚か者の所業かな。あんたも、もう黙りなよ」

 ヒノエは再び弁慶の唇に己のそれを落とした。






***





 暗い部屋にどちらのものともつかない荒い息が響く。汗ばむ身体。高まる熱が自分のものだけではないことをヒノエは感じていた。弁慶を見やるが、汗でしっとりと顔に張り付いた髪のせいで表情が読めない。優しい手つきで髪を払ってやると、気だるげな瞳と眼があった。

「月の色の花が咲いたね」

 頬や首筋に張り付いた髪も丁寧に取ってやると、そのために指が触れるだけで弁慶は熱い吐息を漏らした。瞳には生理的に流した雫と確かに存在する欲情。そのくせ唇に己の手を押し当てて、一度たりとも声を上げていない。だがそれももう限界だろう。口元の手を拘束して外させると、恨めしげにヒノエを仰ぎ見るのがいい証拠だ。
 ヒノエは笑って、言った。

「ねぇ、俺の名前を呼びなよ」

 勝利を確信した優越に満ちたものでも、得意げなものでもない。ことのほか優しい笑みだった。
 弁慶が、閉ざした唇をそっと開く。


『ヒノエ君は弁慶さんに生きたがって欲しいって思っているでしょう?』


そう。ヒノエはただ見たかっただけだ。何もかもを諦めたこの男が、貪欲にヒノエ(生)を求める姿を。









【オマケ】


ヒノエが上体を起こすと、無造作にかけただけの布がはらりと落ちた。
朧に浮かび上がるしなやかな肢体。伸びる美しい腕にはパイプが握られ僅かな煙を燻らせている。海を渡ってきた代物なのだろう、煙は嗅ぎなれない香りを放っていた。この男が煙草を嗜むとは長い付き合いであるが知らなかった。恐らくは行為の後、この時だけの楽しみとしているのだ。
 自分が知らなかったこの男を、今自分だけに見せているこの姿を知り得ている者が数多居ると思うと胸がうずいた。こんな胸騒ぎを弁慶は知らない。
(―まさか、)
 だが知識として持っている。己がそんな感情を抱くなど思っても見なかった。
(嫉妬―・・・この僕が?)
 視線に気付いたヒノエと眼が合うと、弁慶は生じた戸惑いを悟られないように笑った。
「君がそんな物を嗜むとは知らなかったな。美味しいんですか?」
「まぁね。・・・吸ってみるかい?」

 頷いて半身を起こした弁慶の唇に、ヒノエがそっと手にしたパイプを添える。
 無銭広がる大陸の香りは海の香り―ヒノエの香。

「全く。君はいらないものばかり持ってくるんですね」

 強く、くせのある甘さに眩暈がする。
それに抱いてしまう愛しさ。――もう、執着を感じずにはいられない。