みをつくし




ヒノエが願って手に入らなかったものなど無かった。幼い頃は周囲から厳しい教育を受けながらもその実甘やかされていたし、成長してからも欲しいものは自分で手に入れてきたと自負している。

唯一手に入らなかったものは独特の香りを宿した懐かしい女(ひと)。数多の女を知るヒノエの、初めての女だったわけではない。ヒノエが初めて心を捧げた女だった。一度は手に入れたその女は指先から零れ落つる清流のようにヒノエの手から離れた。ただ、触れるだけの口付けと生涯消えることの無い余薫だけを残して。





ヒノエは自嘲の笑いを漏らした。勝浦の満月は何時だってヒノエを惑わせる。
感傷的な気を振り払うように杯を傾けるが、それが空なのに気付き手酌を振るう。腕の動きに合わせて漂う自身に焚いたきつい香り。美しく儚い思い出に土足で踏み入れられたような心地がして眉間に皺を寄せる。強い香の中からそれでも顔を出すのは名も思い出せない女たちの姿だ。

『残酷なことね』

女達の慟哭でも聞こえたのか、ヒノエが纏う香の意味を気取った朔が言った。

『せめてもの想いを残したいがための移り香でしょうに。掻き消されるとは女の身には残酷な事だわ』

皮肉るようにヒノエをねめつけた朔が、しかし本当に非難したかったのは香りを消すことではなく毎夜別の女性と繰り返される逢瀬。解ってはいてもヒノエには止められぬ。残り香は女の肌、そして記憶だ。消せぬ悲しい余薫を一時でも忘れ去りたい、たとえ重ねる香が虚しさを感じるものであったとしても。
朔には香りが無かった。醜いまでの執着がないというならば、その幸福の身にはヒノエの心情は解せ無いだろう。

「―いや、」

杯に落ちた月を眼にし、思う。香を移したい男もいないのならそれもまた切ないものだ。
満月を飲み込み、酔いに身を委ねる。
自分は、違う。自分には居るのだ。真に香をこの身体に残したい女が。


翌日、勝浦の宿から白龍の神子が姿を消した。





***





出迎えに現れた朔が、首を横に振る九郎を見て肩を落す。の行方がわからなくなってからすでに3日が経っていた。今では全員揃った八葉の必死の捜索にも関わらず、未だ手がかりの一つもない。
ヒノエ自身が棟梁であるとは知らずとも熊野水軍との関わりだけは知っている仲間達に水軍の協力を頼まれたが、手がかり一つ無い状況で娘1人のためにどうすることも出来ないと一蹴した。それは事実であったし、もとよりヒノエには協力する気はさらさら無かった。

「ヒノエ、知ってることがあるのならそろそろ話してくださいね」
「何のことだい?」
「まだ恍けますか。・・・いい加減にしないと僕も黙っているわけにはいかなくなりますよ」

今日のところは帰ると宿を後にしようとしたとき、弁慶に呼び止められた。その場は知らぬ存ぜぬを通したが、あの抜け目の無い叔父のことだ、もうばれているのだろう。本気で隠し通す気ならばそろそろ場所を移したほうが良いかもしれない。



人払いを施した私室へ入ると朝出かける時と変わらずそこに有る存在に安堵を覚える。

「おかえりなさい、ヒノエ君」

行方知れずの神子は其処にいた。

「ただいま、

いくら探してみたところで見つかるはずも無い。探している側であるヒノエが彼女を攫ったのだから。それからはこの部屋と、此処から通じる中庭から一歩も出ていない。
攫われてきたというのには怯えもしなかった。褥に腰掛けたに歩み寄り、頬に垂れた髪を耳にかけてやれば擽ったそうに微笑さえする。彼女のヒノエに対する態度は少しも変わらなかったのだ。

「また、逃げなかったのかい?」

の正面に腰を下ろして問う。攫ってきた張本人が口にするには可笑しな科白だ。だが、不思議に思う。
ヒノエはに縄をかけることも見張りをつけることもしていない。ただ連れてきて、甘い声と微笑で「ここに居てくれないかい?」と囁いた。それだけでヒノエの虜になってしまう娘は大勢居たが、まさかに通用するはずは無いと思っていた。だからこそ彼女に魅かれた。は頬を赤らめこそしたがヒノエの虜になることはない。しかしそれでも彼女は留まったのだ。

「ヒノエ君は逃げて欲しいの?」
「さあ、どうだろうね」

何時ものはぐらかす調子で答えた。しかし今ばかりは真実自分がどうしたいのか解らなかった。
唐突にがヒノエの頬に触れた。桃の襲の袖からは独特の、しかし彼の女とは似ても居ない香が漂う。が以前ヒノエに教えた、彼女本来の世界から持ってきていたという香水だろう。彼の女が愛用していたの物もまた異国の香木であった。馴染みの無いそれはまるで手に入れることの叶わぬ天女(あまおとめ)の象徴のように思えた。

「姫君の方から触れてきてくれるなんて珍しいね。その可愛い胸を煩わせるものに嫉妬してしまいそうだよ」
「だって、ヒノエ君が悲しそう・・ううん違うね。寂しそうだから」

の言葉に声を失う。

「この3日間笑っていないのに気付いてる?」

頬に置かれたままの細い手を握り俯いた。耐えていた涙をこの場で流してしまおうかと、悩んだ。





これはなんの再現なのだろう?
病床に臥せった女も、あの香をヒノエに伸ばしてと同じ言葉を紡いだのだ。

『近頃笑っていらっしゃらないこと、気付いておられますか?』

笑えるような状況ではなかった。周囲も、そして本人もそれどころではないほど苦しかった筈だ。それでも女は笑っていた。

『ヒノエ様、笑ってください。私はヒノエ様が寂しそうになさるから逝くことができません』

頬に触れる指は熱に犯され弱々しげに震えていた。懇願するその痛々しさ、ヒノエは請われるままに笑ってやるしかなかった。

『ほら、これで良いだろう?』

最期に口付けをせがんだ女は微笑を絶やすことなく黄泉の国へ旅立った。
笑顔のために押し殺した涙は握った手の熱が完全に失われても終ぞ流されることは無かった。





「ヒノエ君?」

は黙ってしまったヒノエの名を呼ぶ。
のことを思うならば、笑ってやるべきなのだろう。弱い心など押隠してしまえばいい。だが、それは少女が天つ国へ旅立つことを示している。
優しくヒノエを包むの香。この香りもまたヒノエに染み付き生涯忘れることはないだろう。悲しい記憶を彷彿させる香りなどもう要らないのだ。

「ねぇ、その唇を奪うことを許してくれるかい?」

問いかけの形を取りながらも答えを待つことなく、薄紅の花弁の如き唇を覆う。抵抗は無かった。例えこのまま身体を褥に縫い付けてしまっても、きっと抵抗は無いのだろうと解った。
迷いが無かったと言えば嘘になる。しかしヒノエはゆっくりと唇を離した。
天女の羽衣を隠してしまうことなら簡単に出来る、だが自由な小鳥の羽を手折ってしまうことは出来なかったのだ。

、そろそろ帰ろうか。送って行くよ」

こみ上げかけていた涙は再び押し殺される。結局、ヒノエは昔と同じ微笑をに向けたのだ。――笑うことしか、出来なかったのだ。

「――うん」



繋ぎなおした掌の温もりは、けれども変わらなかった。