何処とも知れぬ空間を骸は漂っていた。―――骸であったもの、と言った方が正確かもしれない。そこは生と死の境界。今の骸は何者でもない新しい命を待つ存在だった。 ふわふわとして生温い、頼りない感覚は骸の好むところではなかったが、今はそんなことに頓着していられる状況ではなかった。押し寄せてくる睡魔に似た感覚に抗おうと必死なのだ。その睡魔は新しい命への誘いである。その誘いを受けた瞬間に己から切り取られる一部があることを骸は理解していた。人間が皆等しく忘れ去っていくもの、記憶だ。 『(まさか、恐ろしいとでも?)』 らしくない心情に苦笑を零そうとして肉体が無いことに気付く。忌々しくもある感情だが不思議と不快感を抱いてはいない。原因は懐かしい記憶にあった。それもこれから喪うだろう内の一つである。誰もが等しく忘れていく記憶。たった一つ例外があるとすれば骸、彼の記憶は優しいもから順に奪われる。 始まりは彼女からだった。それはつい先ほどまでの生の思春期に入るだろうかというころ。 「こんにちは」 「…こんにちは」 所謂中流階級に属する一般的な親の下、一般的な家庭で育った。激動に彩られたような運命の中で比較的穏やかな生だった。しかし魂に植えつけられた業火は弱まることなく存在し続け、それを保持する骸もまた骸でしかなかった。歪んだ笑みも明らかに一線を異にする空気も他人を遠ざけるには十分だった。おせっかいな者も空気を読めない愚か者も1度は話しかけてきても2度目はなかった。骸の隣に誰かが存在することは無かったのだ。彼女が現れるまでは。 「あら?今日も一人なの?」 「諦めないのは貴女くらいですよ。貴女も懲りませんね」 眼も向けずに冷たく言い放つが、彼女はさも可笑しそうにクスクス笑いながら骸の向かいの席に腰掛けた。自宅から歩いて数分とかからない小さな図書館。日当たりの良くない建物の中で唯一日の当たるその席は彼女の指定席だった。それを知らずに向かいへと座ったのは骸だったが、彼が居座り続ければいずれ 離れると思っていた。 「あたしはこの席が気に入ってるの。嫌ならあなたが移動すればいいのよ」 「そうですね」 「…移動しないの?」 「僕は嫌とは言っていませんよ」 意表をつかれた様子の彼女を他所に骸は読みかけの書物に視線を落とした。一時遅れて彼女が微笑むのを感じたが、気付かないふりをした。そうすれば彼女ももう何も言わず、自分の持ってきた本を開く。 彼女は絶妙な距離を保った。近すぎず離れすぎず、そんな彼女と時を過ごすことは不快でなかったので存在を許した。どうせすぐに忘れる、一時の気まぐれだった。 「僕はもう帰ります。、あなたも暗くならないうちに帰ったほうがいいですよ。最近通り魔が……?」 顔を凝視してくるに骸は言葉を区切った。いつも真っ直ぐと眼を見て話を聞く少女ではあるが、その表情はそんな類のものではなく、驚愕である。 「どうかしましたか?」 「いま、なんて言った?」 「暗くならないうちに帰ったほうが良いと…」 「違うわ、その前。あたしの名前を呼んだでしょう?」 だからなんだと訝しみつつも頷いてみせると、は頬にかかる髪を耳にかけてから話し出した。興奮している時の、それが彼女のクセだった。 「ねぇ知ってる?現世で関わりの深い人とは前世でも何かしら縁があったんですって。きっと、あたしたち前世でも会っているわ」 「・・・くだらない。それにたかが名前ごときで“関わりの深い人”ですか」 「だって、貴方あたし以外の人名前で呼んだこと無いでしょう?だったらそれだけで十分だわ」 どちらかといえば現実的な思考をする少女であったが、彼女は時にこうした突飛な話題を出した。それを信じた事もまともに応答したこともなかったが、この時ばかりは彼女の言葉に一瞬息を呑んだ。骸はもちろん前世の記憶を有していた。ただしそれは憎しみの記憶でしかなく、その中に彼女の存在はない。 「そうだ、逆説的に考えれば来世でも会えるってことよね」 「会ったとしても…どうせ覚えていないのならば、無意味です」 骸は唐突に踵を返し、「帰ります」と一言言い置いてゆっくりと歩き出した。思わず感情を剥き出しにしてしまった失態をごまかすための行動だった。の周囲をはばからぬ呼び声で振り返れば、彼女は自信に満ちた笑みで言った。 「きっと覚えているわ、魂が」 骸は無言でその場を去った。 それから後もその図書館へ通ったが、彼女に会うことは2度となかった。そこでようやく、骸は自分が彼女の名前の他は何一つ知らないことに気付き、しばらく後に彼女があの日のうちに通り魔に殺されていた事を知る。 彼女を殺した通り魔を殺し、それから後は特にやるべき事もなかった。もとより動きのとりにくい肉体と環境だった。それでもだらだらと人生を続けたのはやはり彼女の存在のためだった。死した今が初めてではない。あの生を歩んでいるときから骸は彼女の記憶を忘れまいと抵抗しているのだ。 「(しかし、そろそろ限界か・・・)」 今にも消えそうな意識を骸は必死に思考することにより奮い立たせる。徐々に何も考えられなくなってゆく意識の中で彼女の最後の言葉だけが強く響いた。 『きっと覚えているわ、魂が』 最後くらい、信じてみるのもいいかもしれない。そう思ったのは唯の気まぐれ。どうせ始まりもそう、気まぐれだったのだから。 言い訳のような言葉を繰り返し想って、骸は睡魔に身をゆだねた。どちらにしろ、それしか選択肢はなかった。けれどゆっくりと堕ちていくまどろみは、触れた事の無い彼女の肌へと沈むようだと思った。そこで一度、骸の意識は途切れる。 次に骸が眼を開けた時、視界は眩しい白い光に閉められ、上手く動かない四肢を懸命に暴れさせていた。 柔らかい腕に抱かれて慣れてきた眼を上に向ければ優しげに微笑む女が居る。彼女は頬にかかる髪を耳にかけて言った。 「こんにちは、あたしのリトル・ボーイ」 その祝福の唇を、骸は知っていた。 真っ白に生まれ出た瞬間離れる運命でも
―――――また逢えましたね。 |