「クフフ、見つかってしまいましたね」


困りました。そう言って骸は、ちっとも困った様子のない顔で笑った。長い足を組みなおす仕草が、朽ちたソファに不似合いに優雅だった。

「見つかりたくなかったの?」
「もちろんです」

いつもどおりの、人を見下す楽しげな笑み。その微笑はまるでピエロだ。舞台の上で作られた歪な完璧さ。

「私は骸を見つけたかった」
「困った人ですね」

完璧なピエロの瞳の奥に、かすかな苛立ちが混じった。


「折角、何も言わずに離れてあげたのに。君は馬鹿ですか?」


盛大な溜息をつきながら立ち上がり近づいてくる骸の、その顔を見つめた。一人分の距離を置いてを見下ろす。幼子の我侭を持て余すかのように眉根を寄せ、困りきっているのが分かる。完璧に彩られた笑顔よりも、は骸のその表情が好きだった。


「貴女は僕にとって必要のない人間だ。ちょっとしたお遊びの、気まぐれで相手をしていたが、もういい。貴女はいらないんです」


これで満足だろうとでも言いたげに、骸は早口で言い捨てた。けれども、には、これで引き下がってやるつもりなど毛頭ないのだ。


「違うわ」


“いらない”といわれて全くショックを受けなかったわけではない。しかし、予想していたことでもある。骸が必要としているのは、柿本たちのように彼の手足となって動く者のみ。身体は複数でも意思は一つだ。はその存在に甘んじることを認めるわけにいかない。


「違うわ。私はあなたの求める“目的”にとって必要がないだけ。でも目的…“結果”だけを手に入れるだけなら、生きてるなんて言わない。こなしただけよ。結果に行き着くまでの、悲しみとか喜びとか、記憶にも残んない些細な日常とか…そんなものを積み重ねるのが“生きる”ってことでしょう?私は、私はあなたと過程を共にしたいの」


人は皆、生きることに理由を求める。理由なくして生きてはいけない。だけどそれは、何かを“成し遂げる”ってことだけじゃないはずだ。そうでなければ、成し遂げるまでの長い長い時間、安堵することも気を休めることも出来ない。夢を、結果を求める過程の中で、様々な感情が生まれ、葛藤があり、誰かと出会い、衝突し、解かり合う。そんなものがあれば、目的を果たせたとしても、そうでなかったとしても、「生きていて良かった」「いい人生だ」と、人は思うのではないか。
骸はそんな、誰かと歩む過程を踏み躙ろうとしている。そんな保険めいたものなどなくても、必ず目的を達成するという絶対的な決意と自信。骸はとても強いのかもしれない。しかし、同時にとても哀しい。ユートピアに独り閉じ込められた彼にはいくつかの感情が欠如している。ならば、自分はそれを与える蛇になろう。


一息に話したの言葉を黙って聞いていた骸の表情は、先ほどよりもさらに憂苦のものになっている。にはそれが愛おしい。もっと、自分のことで困って、思い悩んで欲しかった。

「骸、一緒に・・・」


しかし、伸ばした指が骸に触れることはなかった。
ぷつん。テレビの電源を切るようにあっけなく二人の関係は断たれ、の過程から骸の存在は消失した。差し出した果実は、食まれることなく地に落ちた。
















踏みしめた瓦礫が、がらり崩れた。その音が思いがけず大きく響いたので、足を止めてしまった。
は、ある廃墟の中にいた。しばらく前から気になっていて、今日思い切って足を踏み入れるに到ったのだ。
ガラスの割られた窓、落書きのあるすすけた壁、崩れた階段。やっとみつけたはしごを恐る恐る二階へ上るとボーリング場があった。誰かと同じように入り込んで遊んだのだろうか。レーンの上には数本のピンに混ざってビールビンが並んでいる。
無造作に転がるボールの一つを掌で撫でながら、はこの建物に踏み入ったときからの不可解な感覚に思いを馳せた。
この場所は、黒曜ヘルシーランドというアミューズメントパーク跡地である。その本来の役割を果たしているときでさえ、訪れたことなどなかった。しかし、なぜか湧き起こる既知感。

ざわり。砕けた壁の隙間から通る風が肌を撫でる。不気味な感覚に、帰ろうかという考えが横切った。しかし、ずくんずくんと突き上げる、相反した衝動を無視することもできないのだ。階段へと続く厚い扉の向こうから、呼び声が聞こえる。それは虫を誘う果実のように甘美な匂いを放ち、を惹きつけた。


ふらりと立ち上がり、気付くとは扉を開け、階段を登っていた。(行かなくては、この先にあの人が待っている。)憑かれたように歩を進める。徐々に速まる足。“あの人”が誰のことなのか、疑問に思う余裕すらなかった。


辿りついた三階は映画館であったらしい。フロアを見回しながら僅かあがった息を整える。それは、期待する鼓動を落ちつかせることに似ていた。
シアタールームの重厚な扉をゆっくりと開く。最初に目に付くのは、破けたスクリーンの中に置かれたソファ。そこには制服姿の小柄な少女が鎮座していた。可憐な少女だったが、には彼女の造りに気を配る余裕はなかった。少女を知覚した瞬間から頭痛がを襲っていた。ぐるぐると誰かが脳みそをかき回しているような、頭蓋の奥を煩くノックしているような激しい頭痛だ。


「クフフ、見つかってしまいましたね」
「見つかりたくなかったの?」


米神をおさえながらも、口をついて出た言葉に、眼前の少女は楽しげに嗤う。
欠落した微笑み。いや、むしろそれは完璧だった。それ故に人の心を落ち着かせなくさせる脆さを併せ持っている。
は、まるでそうすることが決められていたかのごとく自然に、少女に向け手を伸ばした。ノックの音が急激に高まり、そしてやんだ。指先が頬に触れるころには、少女の姿は少年のものに変わっていた。「―骸」帰ってきた記憶を、は複雑な思いの中に迎え入れた。


「この娘もあなたの一部?」
「はい」


骸は嗤う。あの頃と同じ微笑で。「そう」生じた苛立ちを押さえつけるために、は淡々としゃべらなくてはならなかった。


「城島くんや柿本くんと同じ?」
「はい」
「あなた自身の一部?」
「はい」
「何も変わっていないのね…」
「……」


最後、感情を顕わにした言葉に骸は答えなかった。これも、あの頃と同じだ。彼が与える言葉は表面的なものだけであり、本質に触れようとすれば固く口を閉ざした。


「あなたの世界はあなたとあなたの一部と、敵でできている」
「はい」
「私は、あなたのそばにいたい」
「はい」
「でも、あなたの一部になりたいわけじゃない」
「知っています」


気付かぬうちに爪を立ててしまったのか、骸の頬に細い線が走っている。では、何故戻ってきたのだろう?は小さく完結している骸の世界の亀裂になりたかった。骸はそれを許さずの記憶を削除し、去ったはずではなかったか。私は、あの一筋の傷になりたかった。そんなことを考えながら、ぷくりと浮き上がってくる赤い粒をぼんやりと眺めていた。


「あなたは何も変わっていないと言いましたが、僕は変わりました」骸はそこで言葉を区切ってに視線を向けたが、は何を言えばいい河からなかった。彼女が言葉を発しないのを見てとると、骸は構わず続けた。
「正確には、“変わりつつある”と言ったところでしょうか。ある人物と出会いました。変わった、おもしろい人物です。そうですね、少し君に似ている」



骸はその人物のことを詳細に語った。骸の主観をふんだんに織り交ぜて語られた“彼”は何処にでもいる、少し臆病な少年のようだった。骸も脆弱と評した。しかし、不可思議な力を持っている。そして何より、敵として出会った骸を仲間として受け入れ(骸自身はそれを承諾していないようだが)、理解を試み、意見をぶつける。そして骸は、それに苛立ちもするが概ね不快ではない。“彼”が差し出した果実を骸は食べたのだと、は理解した。


「実に興味深い。この僕が、影響を受けようとしている。さぁ、君にこの意味がわかりますか?」
「つまり…?」
「これは一つの可能性です。変わるかもしれないし、変わらないかもしれない」


困惑のなかに期待を隠したに、今度は骸が手を伸ばした。



「最初の問いに答えましょう、僕は君に見つかりたかった。僕の世界に人間(アダム)は僕だけです。僕は、僕のイブになり得るのは君しかいない―



の好きな困った顔で、骸が微笑む。
充分だった。それを自分の生きる目的にしよう。たとえ叶わなくても構わない。その過程には紛れもない、あなたがいる。








楽園へと堕ちていく