『お前に守るものはあるか』
 闘牙王は幾度かに及んで殺生丸に問うた。鋭く見据えるその父の眼を冷たく見返し、殺生丸はいつでも同じように答えた。己に守るものなど必要無い、と。






 大地がぼこぼこと音を立てて鳴き、熱気と瘴気が満ちる荒野を殺生丸は1人歩いていた。瘴気に耐えられぬからと云って置いてきたりんの傍に邪見をも残したため、殺生丸の追憶を遮るものは何も無かった。
 ぼこんと大地が際立った音を一つ上げ、一匹の鬼が立ちはだかる。「この先には行かせない」その一言を終える前に鬼は事切れていた。一薙ぎして鬼の血を払ってから闘鬼神を鞘に収め、再び歩みを進める。
「―ふん」
 思いもよらず粗野な太刀になってしまった。追憶を遮るものはない。邪魔が入らぬからこそ苛立ちが募るのだ。





 荒野の果てに現れた、城と呼ぶに差し支えないだろう妖怪の根城。その最奥に目指すものはあった。
 城の主に囚われたその少女と眼が合う。

 煩く戦慄く城主を無視し、低いけれど不思議に響く声で名を呼ぶと、の瞳ははっきりと物語る。
「その眼だ」
 を前にするといつもそうである様に、此度もまた彼女の瞳に殺生丸は母を重ねた。は母に似ていた。姿形ではない、もっと魂に近いところが。
 母は少女のような女だった。ただ幼女の如き容貌にそぐわぬ鋭い瞳と鮮やかすぎる唇の紅だけが、彼女の重ねた年月と大妖の血をうかがわせていた。
―強くあれ、強くあれ。弱きものを混血なるを蔑め。純血であることを誇れ!―
呪うように彼女は繰り返した。卑しむべき人間の姫に夫を奪われた哀れな女だ。我が子に向けた最後の眼は母親のそれではなかった。
「殺生丸…」
 呟いてから一瞬苦痛に顔をゆがめ、再びは殺生丸を見た。存在を無視されていた主が怒り猛って彼女の拘束を強め、殺生丸に詰め寄る。鈍重なその動きをふわりとかわし、の拘束を解いて引き寄せる。促されるまま身体にしがみ付いたは、安堵を滲ませた声音でもう一度殺生丸の名を呼んだ。
「お前も…」
「え?」
「お前も私に強さを求めよと云うか」
 闘鬼神を軽く振るうと、主は一閃の下に崩れ落ちて滅した。
 ふわりと着地して、抱きかかえていたを隣に降ろす。彼女はまた殺生丸の名を呼んだ。殺生丸は知らずの内に身構えていた。
 ずっと昔同じようなことがあった。の瞳にだぶる記憶の中の母は、血に塗れた殺生丸に手を差し伸べることも微笑む一つ与えることもなかった。紅い唇に乗せるのはいつもと変わらぬ呪文。『まだ、まだ足りぬ。もっと、更に強く、強く――…』
 ただそれを冷めた眼で見据える。
 しかし今、殺生丸に向かい伸ばされる手があった。眼を見開くのにも構わず、程なくしてそっと頬に触れた。
「助けてくれてありがとう。…ごめんね、怪我とかしてない?」
「きさまに案じられる事などない。あんな雑魚妖怪に傷を受ける殺生丸ではないわ」
「そう、そうよね」
 困ったように微笑い、桜色の唇で言葉を紡ぐ。華奢な白い手、その先に居る少女に初めて出会ったような気がした。





 繰り返される父と母の言葉の示す意味は、弱きものを守るためひたすら強き高みを目指せと、所詮同じものでしかなかった。反発するように彷徨い、己の意思で己のために強さを求めた。それは殺生丸を孤独へと押し上げる。強さを求める旅路に同行者はなく、高みへ昇れば昇るほどに世界は静寂で満ちた。
 過去に立ち上ってみても、光を閉ざして見る父は背を向け、母の眼は殺生丸を介して父の幻影を見ていた。
「殺生丸に怪我がなくて良かったわ。私も、少し強くならなきゃいけないね」
 しかし今、頬に触れる温もりがあり、殺生丸を写す眼がある。
「…やはり似ていないな」
「なに?」
「何でもない。行くぞ―

 身を翻し、歩み始めた殺生丸の隣に軽やかな足音が並んだ。





残滓をわたり、君に出会う。