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あまねく価値観の全ては、唯一人間だけが持つことを許された。

かつてジャーファルは人間ではなかった。思考することはなく、指示に従うだけの獣。変革は太陽との出会い。暖かく、強い手をとったあのとき、人間としてのジャーファルが産声をあげた。
太陽は言った。「おまえに“幸せ”をやろう」ジャーファルは“しあわせ”の意味もまだわからなかった。












昼餉時を過ぎたころ、シンドバッド一行は、久しぶりの人里に入った。
歩幅の倍以上違う連れ達に合わせながらも、ジャーファルはきょろきょろと、辺りをせわしなく見回しながら歩いた。シンドバッドに拾われてから、いままで見ていなかったものが眼に入るようになった。そしてそれらは須らく、新鮮なものに思われた。
今も兄妹らしき二人の幼子が、じゃれあいながら目の前を駆け抜けていく。たどたどしく駆ける少女の手を、兄らしき子がぎゅっと握っている。そのつながれた手から視線を外せぬまま、気付けば、前を行くシンドバッドの裾をしっかりと握っていた。
突然の行動に驚いたシンドバッドは、ジャーファルの視線の先を見つけ、得心がついたというように苦笑した。くしゃりとジャーファルの銀髪を撫でた手は最初に掴んだ時と同じ暖かさだった。


「ごめん、な」


応えないジャーファルの手を握り、シンドバッドは再び歩き始めた。
“ごめん”とは、謝罪をする時に用いる言葉である。やっと“幸せ”の意味がわかったのに、今度はシンドバッドの謝罪の意味がわからずジャーファルは人知れず首をかしげた。














寝台に倒れこむようにして腰かけ、ジャーファルは重い息を吐いた。眉間に皺を刻んだ白い顔には玉の汗が光っている。今回は、部下たちの前で笑っているのが久しぶりにきつかったと一人思いながら、官服の長衣を脱いだ。現れた腕には眷属器の赤い紐が巻きつきけられているのだが、肌に走る赤い筋は常よりも多い。



「思ったよりは軽い、かな?」



傷の具合を確かめてから、手当てをするための準備をするために立ち上がる。棚からいくつかの薬と、布を取り出して寝台に戻る。たったそれだけのことで酷く体力を使った気がする。もう一度大きく息を吐き呼吸を整えると、手当てをするため眷属器を外しにかかった。
止血の役目を果たしていた紐をほどくといままで止められていた血が、堰を切ったかのようにあふれ出した。同時に痺れて麻痺していた痛みも襲ってきて、眉を顰めながら傷口を布で押さえた。
暫く顔を伏せて痛みに耐えていると、ふと部屋の外に気配を感じた。悪い者ではない。手当ては必要ないと押し切って来てしまったが、気を利かせた女官か、それとも部下が様子を見に来たのだろうか。入るか否か迷っているようである。



「何か御用ですか?申し訳ないですが、いま少し手が離せないのです。自分で入ってきていただけますか」



声をかけて促すと、ゆっくりとだが外の人物が動く気配がした。
顔をあげて迎えると、入ってきたのは予想外の人物。



「シン・・・!」



そこには険しい表情をしたシンドバッドが立っていた。



「傷の具合はどうだ?痛むか?・・・なんだ、まだ処置していないのだな。どれ、見せてみろ」



混乱しているジャーファルを他所に、シンドバッドは用意されてあった道具を使って手当てを始める。手を取られた瞬間に、我に返ったジャーファルは声を上げた。



「王にそんなことさせられませんっ!自分でできます。大体どうしてあなたがこのようなところにいるんですか!?」
「様子を見に来ただけだ。・・・いいから、怪我人は大人しくしていろ」
「しかし・・・!」
「ジャーファル、ならば是は命令だ。大人しくしていろ」
「・・・はい」



手を振りほどこうとしても、シンドバッドはそれを許してくれず、逆に強い力でつかまれる。さらに言い募ろうとしたが、命令だと言われてしまえばジャーファルに逆らうことなどできなかった。ずるい人。それが解っていてシンドバッドはそう言うのだ。
仕方がなく目線を落とし、処置を受ける腕を見つめる。シンドバッドは意外なほど手際が良かった。



「・・・うまいですね」
「そうか?まぁ、旅のおかげで慣れているからな」
「・・・・・・申し訳ありません」
「・・・なにがだ」
「あなたの手を煩わせてしまったことがです」



平生になくぴりぴりとした王の雰囲気に、思わず言葉が零れた。大丈夫、自分に何度も言い聞かせる。大丈夫、声はまだみっともなく震えてなんかいない。この人に呆れられ、見限られてしまったら。それはジャーファルにとって、身を切るよりも辛い絶望だった。

びくびくとシンドバッドの反応を待つジャーファルの心境を知ってか知らずか、シンドバッドは一言も発することなく黙々と手当を続けた。やがてそれも終わると、ジャーファルの腕を握ったまま目をつむり、
大息を吐いた。再び瞳を開けたシンドバッドに、もう苛立ちの色はなかった。代わってその表情を占めるのは、深い悲しみの色。



「…すまない」
「は?」
「お前に傷を負わせてしまった」



思わぬ言葉に瞠目するジャーファルを尻目に、シンドバッドは続ける。その指は、自分が巻いたばかりの布に覆われたジャーファルの腕を労わるように撫でている。



「何を…今更そんなこと、気にすることではないでしょう。・・・シン、あなた少し酔ってますね?」
「そう、今更だな」
「シン、あっ、ちょっと!止めてください」
「ジャーファル、ここも、ここもだ」



腕を這う指が包帯に留まらず、二の腕やその先に向かって進んでくる。咎めようと声をあげたジャーファルだったが、シンドバッドの真摯な眼に、すぐに黙らされてしまう。シンドバッドが辿っていたのはジャーファルの古傷だった。シンドバッドや国を守ってできた、傷。



「すまない、ジャーファル」
「また、あなたは何を詫びる必要があるのです」
「約束を違えた」
「約束?」



首をかしげるジャーファルの頬を、シンドバッドの手がするりと撫でる。ほのかに酒の香りのするその手は、数年の間に慣れ親しんだ温度だった。その温もりに、ジャーファルはまるで反射のように目を細める。



「出会ったころ、お前に幸せをやると言った。旅の途中、幼い兄妹に見入っていたお前を覚えているよ。優しく、穏やかな生活をお前に与えたかった。あの時の言葉に誓って嘘はない。しかし、結局お前を戦わせ、怪我ばかりさせている。こんなはずではなかった。すまない、ジャーファル」
「シン・・・」
「それでも俺は、もうお前を手放すことはできないんだ」



苦渋に顔を歪めて、包帯に唇を寄せ懺悔するシンドバッドに、ほんの僅かの腹立たしさを覚える。そして、それ以上に愛しさがジャーファルの全身を満たす。この想いが敬愛なのか恋情なのか、区別することをジャーファルはとうに諦めた。そんなもの、どちらだって構わないのだ。



「ああ、あなたは仕方のない人ですね」



自分の腕とともに、シンドバッドを抱き込んで、ジャーファルは微笑しながら呟く。



「私はとても幸せですよ」



寝息を立て始めた王に、果たして声は届いただろうか。
傷くらい、なんてことはないのだ。寧ろそれは、大事なものを守った誇らしい勲章だった。幸福も、愛しさも、想いの全てはシンドバッドのものだ。ジャーファルを人間にした、太陽のものだ。









あの鳥の色は、

誰がなんと言おうとも、私には確かに鮮やかな、青。