七人のジンの主、七つの海の覇者、シンドバッド。世界にその名を轟かせる豪胆な彼にも、眠れぬ夜があった。暗雲に胸を潰されそうになるその時に、彼は酒精に身を落とす。
殆どの場合において酒はシンドバッドの味方であった。悲しみを忘れさせ、意識をふわふわとした桃源郷に誘う。しかし、ごくまれに酒精は彼を裏切った。

今宵もまた、気まぐれな酒はシンドバッドの心を弱くするばかり。一人、自室で手酌を振るっていたのがいけないのかもしれない。囲われた中に独りで居ると陰鬱とした気分にさせられる。ふらふらとおぼつかない足でシンドバッドは立ち上がった。
恐怖が心に首をもたげたら、もう孤独の世界にただじっと存在していることなどできない。







濃紺に沈んだ城内。南国のシンドリアの夜が嫌に寒い。
途中出会った女官に、酒の用意を頼むと、シンドバッドは城の一角に位置する泉に赴いた。
人工的に石で囲った泉。その水草のない、鏡面のように澄んだ水面には、月が美しく映える。今夜も翳りのない満月が揺らいでいた。
するすると指を伸ばせば、月の表面を撫でることもできる。



「閉じ込めてしまったようだな」



自嘲めいた呟きに応える者はなく、湿った潮風かシンドバッドの頬を撫で、髪をさらう。人の気配が近づくまで、シンドバッドは変わらぬ姿勢で月を愛撫し続けていた。





芳しい香りの酒を携えて現れたのは女官ではなくジャーファルだった。



「やぁ、お前が持ってきてくれるとは思わなかったな」
「先ほど、そこで女官とすれ違ったので預かってきたんですよ。大人しく部屋で飲んでいるかと思ったのに。何をなさってるんですか、シン」
「月見だよ。美しいだろう。箱庭の月だ」



微笑んで手招く王に、ジャーファルは素直に応じながらも、その顔はしかめられていた。酒を持っていない方の手を伸ばし、頬に添えると、シンドバッドは甘えるようにその手に顔をすり寄せる。



「なんて情けない顔をしているんですか、シン。だから深酒は控えるようにと言うんです。酒はあなたの心を弱くします」
「その情けない心を誤魔化すための酒だったのだがな。今宵は見限られたらしい」
「シン……」
「ジャーファル、お前が誤魔化してくれるか?」




シンドバッドが伸ばした手に、今度はジャーファルが顔を寄せた。



「あなたの御心のままに、シン」











つい先刻まで一人でいた部屋に、今度は二人、連れ立って戻った。
恥じらい顔を背けるジャーファルの身体を、シンドバッドはゆっくりと寝台に倒した。布に背がついた刹那、ジャーファルの肩がこわばる。幾度夜をともにしても慣れることのない様子を愛おしく思う。それでも、はらりと服を落とし、現れた白い肌をなぞっていくと、その色は従順に艶美な紅に染まる。
「シン」濡れた声でジャーファルが名を呼ぶ。胸に、腹に唇を落としていたシンドバッドは、ジャーファルの顔をのぞき込むようにして視線をあわせる。
見上げるジャーファルの瞳は、涙で泉のように潤んでいる。その黒い水面の全てが己の姿で占められているので、シンドバッドはたまらなくなった。





「ジャーファル、すまない。抑えられないっ…」
「あやまらないで、シン。私の世界の全てはあなたなんですから」



限界であった。ただ、激情のままにシンドバッドはジャーファルをかき抱いた。











国のため、世界のための戦いに身を置いて、あらゆるものを捨ててきた。側近たちはそれを崇高なことのように言うけれど、違うのだ。己を犠牲にして世に尽くす清廉な王。
そんな王のために激昂し、悲嘆するジャーファルを見るたび重い罪悪感がシンドバッドの胸を苛んだ。あらゆるものを諦めてきた。しかし、たったひとつだけ。どうしても手放せなかったものがあるのだ。



「それがお前だと、どうして言えよう」





シンドバッドの腕のなかで、ジャーファルが微睡んでいる。
細い銀糸の髪が、瞼にかかっているのをみて、そっと横に流してやる。気を付けたつもりだが、気配に敏いジャーファルはぼんやりと目をあけた。



「…つかれました」
「無理をさせたな。お前、明日は政務を休め。ここのところまた全く休んでいないだろう?」
「ふふ、まさか。でも、そうですね、いつもより寝坊をするかもしれません」




疲れと睡魔で、無防備に表情を露にする姿が可愛くて頬に軽く唇を寄せると、再び「ふふ」と声を漏らしたジャーファルが、とろんとした瞳でいった。



「シン、ジャーファルはどこまでもお供します。だから…」



ジャーファルはそのまま夢の世界に落ちてゆき、言葉の最後は聞き取れなかった。しかし、言いたいことは解っている。「ありがとう」と口の中で呟くと、ジャーファルの身体を抱くようにして、寝台に身体を沈めた。
身勝手で酷な想いだと十分すぎるほど理解している。しかし、ジャーファルが、己のためでなく、シンドリアの、世界のためですらなく、ただシンドバッドのために存在している実感を得るたび、シンドバッドの孤独は癒される。





それでも、明日の朝、ジャーファルが目覚めたとき、シンドバッドは隣にいない。温もりの残る寝具にジャーファルを残し、独り抜け出すのだ。朝にはまた、威風堂々たる覇王の顔に戻らねばならぬのだから。









僕の世界は君だと言えたら

そうじゃないからこんなに愛(かな)しい