途方もないと思った。けれども、語るシンドバッドの表情が憧憬に輝いていたのを見て、ジャーファルはそれを彼に与えたいと思った。それになりたいと、願った。









シンドバッドはジャーファルを側に置くようになってから、毎夜欠かさず彼に物語を語って聞かせた。その殆どは迷宮・バアルの冒険譚であったが、海神の荒れ狂う航海の話や、中には、妖精や異国のお姫様が登場する美しい御伽噺もあった。
いつも聞かされ続けた殺人術や裏社会で生きる術の代わりに語られるそれは、ジャーファルを戸惑わせた。しかし、いつしかそれは密かな楽しみとなっていく。それを告げられるほどまだ素直にはなれなかった頃の話である。




「さて、今日はなんの話をするか。子どもに苛められていたカメの話とかはどうだ?」
「なんで…」
「うん?どうした、ジャーファル」
「なんでシンは、いつも俺にそんな話をするんだ」



まだ戸惑いが勝っていた。思わずぽつんと落としてしまった言葉にジャーファルは罰悪く目線を泳がす。
シンドバッドは、その滅多にない歳相応な所作を見て、ジャーファルの髪をわしゃわしゃと無造作に混ぜながら満足げに笑った。



「そんなもの、お前が俺よりガキで、家族だからに決まっているだろう」
「…家族?」



“ガキ”というのもムッとしたが、それより気になる単語である。頭に置かれた手を邪険に落としながらジャーファルは反芻した。



「そうだ。…今夜の物語は決まったな。無償の愛の物語だ」
「無償の愛?」



訝しげな眼を向けるジャーファルを後目に、シンドバッドは穏やかに笑って語り始めた。







昔、ある村に少年が両親と暮らしていた。
家は貧しかったが、両親は身を粉にして働いて、少年に教育を受けさせてくれた。申し訳なかったが、素直にありがたかった。毎日嬉しそうに学ぶ少年を見て、両親も喜んだ。
ある年、父親は徴兵されそれっきり帰ってこなかった。少年と母親は二人で助け合い生きていこうと誓った。少年は、今までの恩返しと働いて、病気の母親を守った。しかし、ある日のこと、山中で足をくじいて動けなくなってしまった。難儀しているうちに、雨まで降ってきた。大木の下で蹲り震えていると、自分を呼ぶ声が聞こえた。それは、病気で寝ているはずの母親だった。







「帰ってこない息子を心配し、病の身をおして、雨の中を探し回ってくれた。なんて無茶をするのだと、普段なら慌てるところだ。しかし、動けず、心細かった少年は母の姿に心底安堵したのだ」
「……そのあと母親は?」
「やはりその後、熱を出して倒れてしまった。少年は泣きながら看病したが、母は全く怒っても恨んでもいなかった。ただただ少年が無事だったことを喜び、『そんな顔をしていないで、笑っていて』と願った」
「へぇ……」
「これが“家族”というものだ。相手のために何かしたいと思う。相手に笑顔でいてほしいと思う。そのためならなんだってできるのさ」



母に握られた温もりを確かめるかのように、シンドバッドが己の手を眺める。その姿がジャーファルの胸を落ち着かなくさせた。



「俺とシンは家族じゃない。血が繋がっていない」
「血なんて関係ないさ。人は皆、大いなるルフの導きの中で生き、死ねばルフの流れに帰る。そして縁の深いルフは惹かれあうものだ。俺はお前と出会った時、ルフの導きを感じたよ。血は繋がらずとも、魂で繋がっている。俺たちは家族だ」



優しく細められたシンドバッドの双眸がジャーファルに向けられる。
その瞳が「愛しい」と語っていた。



(なんて……)



途方もないと思った。しかし、ジャーファルの身の内になにか熱いものが生まれた気がする。訳が分からないまま、それは目にまで込上げる。滲んだ視界の中で、シンドバッドが間抜けに慌てるのがおかしくて、思わず笑ってしまった。ジャーファルが、初めて見せた笑顔だった。胸の奥でビィィと鳥が鳴いた。













シンドリア国王は、類い稀なる寛容な王として国民たちに親しまれている。そのおおらかな王が顔をこわばらせて忙しく進んでいくのを、女官や衛兵たちは何事かと訝しみ、そして向かう先を確認して、あぁと納得した。
シンドバッドが荒々しく開けた扉はジャーファルの部屋だった。部屋の主は常よりも更に白い顔をして、床に臥せっている。かしずく医者や女官たちを、片手をあげて下がらせると、シンドバッドは寝台の傍らにある椅子に腰掛けた。
ジャーファルの顔をのぞき込めば、痛々しく包帯を巻かれてはいたが、安らかな表情で寝息を立てていた。その手を握れば、とくんと低い熱が伝わる。シンドバッドはひとまず安堵の息をついた。つい先刻、ジャーファルが満身創痍で帰還したという報せを受けた時には本当に肝を冷やしたのだ。


不穏な動きがあるらしいという地に斥候としてジャーファルを送ったのは半月ほど前のことである。シンドリアに害を成すかを探り報告せよという命を与え旅立たせてから、消息は全く無かった。そして聞けば、“害”の元を根こそぎ断ってきたのだという。
ジャーファルは昔から傷の絶えない子どもだった。何時でもまっ先に飛び出し、矢面に立つのだ。それに助けられたことがないと言えば嘘になる。窮地を救われたこともあった。だが、自己犠牲のようなその戦い方を、シンドバッドは悲しく思う。



「なぜ、そんなに無茶ばかりするんだ…」
「シン、」



握った手に力が篭ってしまったのか、微かに眉を潜めて、ジャーファルが目覚めた。痛み止めの薬が効いているため、まだその瞳はぼぅとしている。



「何を、情けない顔をしているんです。報告はお聞きになったでしょう?我が国への脅威は潰しました。もう貴方の憂いはありません」
「ジャーファル、お前がそこまでする必要はないんだ。俺やこの国に、お前がそんなに全てを捧げることはないんだよ」


自由になれと言うシンドバッドに、ジャーファルは心底不思議そうな眼を向ける。そして、握られた手の上に、さらにもう一方の手を重ね、泣きじゃくる幼子をあやすように、優しく撫でた。



「いやですよ、シン。あなたが教えてくれたんじゃないですか」
「何?」



シンドバッドの眼に映ったジャーファルの表情は、慈愛に溢れていた。全てを包み込む母のように。
ジャーファルは、片手を胸の上に置いた。まだ聞こえる。あの日からずっと絶えることなく続いている、鳥たちの歌。









始まりの愛の歌

鸚鵡のように、それだけを



「どうか、ねぇ、笑ってください」