世界で唯一、人間だけが生きる理由を欲するという。
ジャーファルの理由は、たったひとりの彼。そう信じることはたまらなく心地よい誘いだった。ただただ、シンドバッドのためだけに生を受けたのだと思えば、全てが赦される気がした。
贖罪を願うほどにジャーファルは、罪にまみれている。

殺せと言われたから殺した。そこに幾許の躊躇いもなかった。持ち得た感情はただ恐怖のみ。幸福も、生きる意味さえも知りはしないのに、死することは恐ろしかった。与えられた任務を完遂すれば、生き延びることはできた。だから殺した。
延々と屍だけをつくりあげてきた。延々と、延々と、終わりのない日々だった。





(なのに、よもや自分がこんな風になるなんて、考えてもみなかった。)





陽光が溢れる中庭を眼窩に納めながら、ジャーファルは回廊を進んだ。急ぎの案件はなく、王も大人しくしているため、珍しく暢気な気分である。視界の中に人影はないが、風にのって様々な声が運ばれてくる。生きとし生けるものが平和な時を刻み、優しい気配に満ちていた。



ふと、背後から近づいてくる軽い足音に気づき、振り返ろうとしたが、それよりも前に腰に衝撃を受けた。ふふと笑いながら抱きついてきたのは、予想通りの人物である。ジャーファルはやれやれと苦笑しながら、柔らかい彼女の髪を撫でた。



「いきなりどうしたの、ピスティ。びっくりするじゃないか」
「全然驚いて見えないですよ〜。ジャーファルさんが見えたから急いで追いついてきたんだよ」
「どうして?」
「だって、もうあの二人の口論きいてるのも飽きちゃったんだもん」



詳細を尋ねるまでもなく、その声はジャーファルにも聞こえてきた。

やいやい怒鳴りあいながら歩いてくるのは、シャルルカンとヤムライハである。



「またあの二人か。今度の原因は何?」
「きっかけは、『この後どっちがマスルールを誘うか』らしいですよ」
「はぁ、マスルールも可哀想に…。二人とも、いい加減になさい!」

「ジャーファルさん!」



いささか語調を強くして声をかけると、二人は、罰の悪い顔をしてジャーファルを窺ったが、先を争うように己の言い分を主張し始めた。喧しいことこの上なく、もはやただの子供の喧嘩である。



「あーもう!君たちも、八人将という立場ある身なのですから、公共の場で騒ぐのは慎みなさい。みっともない」
「はい」
「それに、どちらに付き合うか云々はマスルールが決めることです。彼が断ったからといってまたそこでいろいろ騒がないこと。いいね、シャルルカン」
「ちょっ、なんで俺だけに言うんですかっ!?」
「いいね?」
「……はい」



先ほどよりも、若干声を潜めてしかしやはり言い争いながら二人は再びマスルール目指して去っていった。そしてそれに従うピスティ。



「文句ばっかり言って、シャルは素直じゃないなぁ」
「ばっ、な、何言ってんだよ」
「じゃあ、私とヤムが二人溺れていたらどっちを助ける?」
「馬鹿、お前そんなの選べるわけないだろ!」
「あはははは、そうだねぇ。さすがに質問が悪かったか」
「そうよ、なに言ってるのよピスティ。当たり前じゃない」



遠ざかっていく彼らの言葉が不思議にはっきりとジャーファルの鼓膜を揺らした。



『どっちを選ぶ?』



自分ならば、どうだろうか。自問しなくとも、己の中で答えが既に出ていることをジャーファルは知っていた。考えてはならない。











濃紺の空に凶悪な赤い花が散った。
シンドバッドがその全てを捧げた国が崩れ落ちていく。
美しい王宮も、賑わった街も、等しく炎に呑まれている。指揮系統ももはや崩壊し、誰がどこにいるのかも知れない。事実上、シンドリアは瓦解したのだ。



ジャーファルは、瓦礫の街を炎から逃げた。その歩は遅い。決して浅くはない怪我を負っている上、その背に引き摺るように運ぶのは、意識のない王、シンドバッド。何を置いてもこの人だけは護りきらねばならぬ。ジャーファルはただただ無心に、安全な地を目指して進んだ。
その時、なぜ彼方を見たのか、後から考えてもわからなかった。声が届くはずもない。それでも確かに呼ばれた気がしたのだ。
視線を向けた先、数十メートル離れたところに逃げ遅れたのだろう年若い女―少女といっても差し支えない―がいた。太い柱に押しつぶされ、動くことも声をあげることも出来ぬ様子である。しかし、瞳だけはぎらぎらと輝き、『助けて』と叫んでいた。
ジャーファルは少女を一瞥し、そのまま前進した。否、しようとした。しかし引き止める者があった。シンドバッドである。



「ジャ、ファル、だめだ」
「シン!目覚めたのですかっ?」
「戻れ。彼女を救わなければ」
「無理です。今の私にはあなた一人を救うのが精一杯なのです」
「ならば、俺を置いて行け。俺なら何とでもなる。彼女を救え、これは命令だ、ジャーファル!」



歩を止めないジャーファルに、言い募るシンドバッドの声は荒らげられる。彼の言葉に、ジャーファルが逆らうことなどない。ただ、今度だけを除いて。



「たとえご命令といえど、従うことはできません」
「ジャーファル!」
「王よ!あなたを失えば、生き残った数多の国民が指針を無くすのです。ここで、他の命を見殺しにしても、私はあなたを救います」



まだ、もの言いたげなシンドバッドに構わずジャーファルは先を急いだ。火の手は今も迫り来ている。













少女の姿を二度と振り返ることはしなかった。どうせ絶望に堕ちた瞳をしているに違いなかったからだ。
しかし見ていないはずのその暗澹な瞳が、今夜もまたジャーファルを追いつめる。『なぜ…』



「起きたか、ジャーファル。大丈夫か?酷くうなされているようだったが」
「…シン、どうしたんですか?」
刹那、自分が何処にいるのか解らず、ジャーファルはくるりと周囲を見回す。窓と机、それから申し訳ばかりの収納。まだ馴染まない、ジャーファルの自室である。居住いを正しながらさりげなく額の汗を拭い、王と向き合う。油断すると逸らしてしまう瞳で、意識して正面から見据えた。



「…ジャーファル、俺に取り繕う必要はない。お前の悪夢の話をしに来んだよ」
「…悪夢?私がどんな悪夢を見てるっていうんです?」



嘲笑して言うと、シンドバッドは沈痛な表情でジャーファルの髪を優しく撫でた。そんな表情で見ないで欲しかった。



「すまなかった、ジャーファル。お前に残酷な選択をさせた。あの時、お前を攻めてしまったが、責められるべきはお前ではない。俺だ。俺の未熟さだ。お前はただ、俺のかわりに最善を尽くしてくれただけだ」
「……やめてください」
「本当にすまない。もう、お前にあんな選択はさせはしない。」
「やめろっ!」



怒声をあげたジャーファルだがしかし、その表情は涙を耐えたものであった。勢いのままにシンドバッドに掴みかかっていたジャーファルは、ずるずるとシンドバッドの胸に額をあずけて縋りついた。



「ジャーファル?」
「・・・もう、やめてください」



シンドバッドは、縋りつくジャーファルの肩が思いがけず細いのに驚いた。恐る恐る腕に収めたその肩は、かすかに震えていた。



「ちがう、ちがうんです、シン」



夢の中で追ってくる闇黒の瞳はあの少女だけではなかった。過去に屠ってきた数多の命たちが問いかけてくる。『なぜ』『なぜ』『なぜ』『なぜ』『なぜ』『なぜ』『なぜ』。夜毎大きくなって頭蓋に響く。
しかし、それすらも悪夢の正体ではないのだ。なぜなら、ジャーファルはまだ応えられる。「すべてはただ一人、シンドバッドのためだ」、と。



大切なものは、たったひとつだけでいい。









スモール・ワールド

迷わずにいたことに安堵したのだと言ったなら、あなたは哀しむだろうか。軽蔑するだろうか。それでも・・・



いつまで私は迷わずにいられるだろう?