高らかに太鼓が歌い、闇を払う笑い声が響く。今夜は、国中が眠らない一夜。謝肉祭である。
シンドリアが歓び一色に染まるこの夜が、ジャーファルはたまらなく好きだった。王の傍らで、賑わう人々を眺めながらそっと頬を綻ばせた。



「(まぁ、それはそうと。コレでずれ込んだ仕事の調整を考えなければな)」



久しぶりの宴に、嬉々として盃を干すシンドバッドを横目に、しっかりと轡を引き締めねばと心する。後で苦労するのは自分である。
シンドバッドの酒癖のせいでおきた過去の様々な厄介事を脳裏に巡らせていると、すいと目の前に差し出される盃があった。



「ジャーファル様、折角の宴なのですから、そんな難しそうな顔をなさらないで一緒に楽しんでくださいな」
「ああ…すみません。ありがとうごさいます」



シンドバッドを取り巻いていた女性の数人が、いつの間にかジャーファルの方へ移って来たらしい。ふと目があったシンドバッドがひらひらと手を振りながらウインクする。どうやら彼の差し金のようだった。シンドバッドは事あるごとに同世代の女の友達を作れと勧めてくる。これもその一貫なのだろう。全く余計な心配ばかりするのだから。少々呆れながら、それだけ自分のことを想ってくれているのだと擽ったくもある。華やかな彼女たちとの会話は好ましいものであるので、今回は、ありがたくシンのお節介を受けることにした。



「今年は南海生物の出現が多くて、謝肉祭も多いですね。私達とっても嬉しいんです。いつも祭りを楽しみにしているんですもの」
「そう言っていただけると企画側も冥利に尽きますね。みなさん何が一番楽しみなのですか?」
「私は宴ももちろんですけれど、八人将の方々の南海生物との戦いもわくわくして好きです」
「あら、なんと言っても王様とお近くでお話できることよ!」
「うふふ、言えてるわ。でも、そうですね。王だけでなく、着飾って美しく装った姿を殿方に褒められるのは嬉しいわよね」



女子だけで集っているという気安さと、仄かな酔いが彼女たちを明るくおしゃべりにする。年頃の娘が集まれば、口先に上るのは恋に美容。可愛らしい話題に微笑ましく思っていると、その矛先は思いがけず、自分にむいた。



「ジャーファル様も、こんな日くらいは官衣ではなく、女性らしく装えばよろしいのに」
「いえ、私はそんな…」
「えー!もったいないですわ。肌が白くていらっしゃるからきっとお化粧も映えますよ」
「本当に。ねぇジャーファル様、きっと次の謝肉祭の時には私たちにお召し物を見繕わせてくださいませ!びっくりするほど綺麗に仕立ててみせます」



きゃらきゃらと盛り上げる娘たちに、ジャーファルは曖昧に笑ってごまかした。
さりげなく、シンドバッドを盗み見る。常よりも幾分上気した頬で笑っている。その肢体に寄り添う豊満で煌びやかな美女たち。今、この光景を見るとき、自分が抱く思いは何だろうか。ジャーファルは胸の中で静かに自問した。

そして謝肉祭の夜は更けていく。









夜が明ければ宴も終わる。太鼓の音はやみ、妖精のような踊り子たちは日常の喧騒の中に消える。あとに残るのは、いつもどおりの日々の営み。
賑やかな祭りの後では些か静かに感じる回廊を通り、ジャーファルは王の執務室に赴いた。



「おはようございます、シンドバッド王」
「ああ、おはようジャーファル」



一応型通りの挨拶はしたものの二人きりであるため、王の態度は気安いものである。ジャーファルもそれにならって体の力を抜き、招かれるままに室内に入った。



「本日のアルテミュラ大使の謁見ですが、私も同席いたします。一応、護衛としてはマスルールが控える予定です」
「ああ、あの狸オヤジだな」
「シン、おやじはあなたも一緒なんだから、あまり言わないほうがいいですよ」
「おやじ言うな!俺はまだまだ現役だ」



軽口を叩きあったところで、シンドバッドの眼がすぅと細められ、空気が変わる。ことは決して軽くはないのだ。



「ふむ。両国間の海賊行為増加についての提言、ね。自分で海賊煽っといてどういうつもりだろうなぁ」
「正確にはまだ断定はできませんけれどね。この滞在中に白黒つけて、目的まで突き止めたいところです。大使の滞在は一週間の予定ですから急がねばなりませんね」
「ああ。黒ならばこちらで処理して良いとアルテミュラ王とも話がついている。お前に一任して構わないか?」
「もちろんです」



淀みなく応じたジャーファルに、シンドバッドは満足げに頷き、命じた。



「人員は八人将をはじめ好きに使え。報告は密に。我らの災いを一掃せよ」

「仰せのままに、王よ」









最初の謁見は滞りなく行われた。もとより挨拶と、嘆願書を提出するだけの儀礼的なものである。



「ではシンドバッド王、こちらが両国間での海賊行為規制に関する嘆願書でございます」
「うむ。アルテミュラとシンドリアの友好に関わる大事だからな、心して対応を講じよう」
「ありがとうございます」
「大使におかれては、初めてのシンドバッド訪問でしょう?是非我が国を楽しんでいってください」



シンドバッドのこの声で、謁見は終了した。



大使は小太りの冴えない男であった。アルテミュラに多いブロンドの髪と灰がかった青い瞳。それ以外は特筆すべきところは何もない。ただ、露骨な眼をする男だと思った。王に向けられた媚び諂った眼、そして自分に向けられた値踏みするような眼。ねっとりとした視線とともに送られた言葉がジャーファルの内をぐるぐると回る。



「『月のよう』、ね」
「嫌なンすか?綺麗じゃないっすか」
マスルールの言葉にジャーファルは苦笑で返す。確かに美しい形容だろうとは思うのだが。



「う〜ん、確かにそうなんだけどね。ちょっと含みがある感じが気になったかな」
「はぁ、そうっすか」
「うん。…さて、じゃあ私はしばらく探ってみるから、またなにかあったらお願いね」
「はい」





それから三日の間、ジャーファルは通常の政務をこなす傍らで、大使たち一行の動向を探った。気配を消す方法も、臭いを絶つ術も心得ていた。そして裏の世界を見てきたジャーファルのカンが、大使は黒だと告げていた。ジャーファルは慎重に、丹念に調べを進めたのだ。何一つ手落ちはないはずだった。





「しかし何も見つからないというのか」
「はい…。申し訳ありません」



三日目の深夜、王の私室にて定期の報告を入れる。毎回代わり映えのない内容、時間だけが無為にすぎていくことにジャーファルの苛立ちが募る。対するシンドバッドは一見、平生と変わらぬように見受けられるが、眉間の皺は常の比ではない。



「ふん、しかし白だという確証もなし、か」
「ええ。言葉の節々に何か含みのようなものを感じます。十中八九何かある、というのが私の見解です。しかし、意外になかなか尻尾を出しませんね。…はぁ、酒でも勧めて聞き出しますか」
「ほう…お前が酌をするのか」



密事を探る方法として、色ごとが有効であることは百も承知である。しかしまた、ジャーファルはそれが自分には向かない策であることもよく理解していた。美しい容貌も、心を酔わせる話術も、何一つ持ってはいなかった。

それが解っていて、にぃと、意地の悪い笑を浮かべる主が憎らしい。寝台に腰掛けるシンドバッドをじとり睨んでジャーファルは踵を返す。



「言っておきますが、冗談ですからね。私がそのような真似をしても効果はないと知っているでしょう。では、私はまた調査に戻りますので、失礼します」 「まてまてジャーファル」



そのまま退室してしまってもよかったが、ジャーファルにシンドバッドを無視することなど出来はしない。呼び止める声に恐る恐る振り返る。視線の先のシンドバッドは存外穏やかな顔で微笑んでいた。



「おいで、ジャーファル」



求められるがままに近づいていくと、ぐいと優しい強さで腕を引かれた。体制を崩し、シンドバッドの膝に乗り上げる形となる。広い肩に手をついて顔を上げると、近くなったシンドバッの瞳が蠱惑的に微笑んだ。



「俺は是非とも受けたいけどな、おまえの色仕掛け」
「な、にを…」



馬鹿なことを言っている、と続ける前に、シンドバッドはジャーファルの髪と頬をさらりと撫で、そのまま逆の頬に口付けた。そして、今度はジャーファルの唇に触れる。



「っん」一度大きく見開いた瞳を、きつく閉じた。嬉しくて、切ない。相反する思いがわき起こり、苦しい。離れなければと思うのに、腰に回されたシンドバッドの腕の柔らかな拘束が心地よくて。離れたく、なかった。

しかし、最後には必ず理性が勝つ。それがジャーファルだった。震える手でシンドバッドの胸を押し、距離をつくる。



「何を、血迷ったことをしているんです、からかうのはやめてください。お望みならば、女性を呼べばよろしいでしょう!」



捲し立てるようにいうと、また捕まる前に足早に部屋から逃げた。
残されたシンドバッドのつぶやきは、ジャーファルには届かない。彼の心もまた、切ないのだ。













満月を翌日に控えた夜。月光は明るく下界を照らし出し、白塗りの王宮は白銀に輝く。
あれから数分後、ジャーファルは大使が滞在する部屋のテラスにいた。身の隠しにくい夜であったが、元来色素の薄いジャーファルは、翠緑のクーフィーヤを外せば月影に紛れることができた。

気配を殺して静かに室内の様子を伺う。ちょうど大使は、側近の男と二人で話をしているらしい。都合良く、二人とも微酔である。



「(あれは…やはり、おかしい。魔法道具か?)」



三日調査し、収穫がひとつもないわけではなかった。ジャーファルが初日から気にかけているのは、部屋の奥、丁度月を映す位置に立てかけられた大きな鏡である。
月の光を受けているためか、妖しく輝くその鏡からは微かに魔力の気配が感じられる。微々たるものだが、夜ごとに強くなっているように感じる。



「しかし、この鏡、今宵はいつにも増して美しいですな」
「もう明日は満月だからな。満月は人の心を惑わせる力を持つそうだ。そしてその心をこの鏡でちょいと弄ってやればよい」
「ふふふ…恐ろしい。これでシンドバッドの心を操れば戦争が起こせますね」
「そう。そして我が大願に一歩近づく」



そのとき、室内にごうっと突風が吹いた。風の吹き込むもとに目を向けた男たちはひっと恐怖に声を引き攣らせた。そこに在ったのは、月光を背負った白銀の人影。白い髪が風になびき、その合間から見える眼光は金色に輝く。
「それ以上は喋らなくて結構ですよ」
「ジャ、ジャーファル殿…」
「大丈夫、殺しはしません。まだ、ね」



にっこりと嗤い、ジャーファルは眷属器を発動した。部屋の外に控えていた大使の護衛たちが応戦したが、ジャーファルの敵ではない。しばらくの後、部屋にはジャーファルだけが立っていた。


煌々と輝いていた月はいつの間にか厚い雲に隠れた。ランプも破壊された部屋は暗闇に落ちるはずであるのに、うすぼんやりと明るい。光源を探せば、それは魔法道具の鏡面であった。蓄えた月光を吐き出すように淡く光る。





「『月のよう』、ね」



鏡にそっと触れながら、ぼそり呟く。何度か揶揄されたことがあるその形容が、そう、本当は嫌だった。
ジャーファルにとっての太陽は、紛れも無くシンドバッド王その人であるのだから。



「月では傍に居られない」



心震わせる美しさなどなくていい。ただ傍に在れるのならば綺麗な存在でなくていい。
ジャーファルは白い指でぱたんと鏡を倒した。世界は今度こそ闇に沈む。暗黒の中で、ジャーファルはほぅと体の力を抜いた。









せめてこの闇の中では安らかに

―…ただ、あなたを想える。



「好きです、シン」