換気だと言って母が病室の窓をめいっぱい開いた。冷たい空気が流れ込んできたのを肌が感じ取り、鼻は2種類の匂いに気付く。馴染みすぎて分からなくなっていた病院の匂いと、それから降り出す前の雪の匂い。それらは何処となく幸村の脳裏に“死”を浮かび上がらせた。
「今日は冷えるわね。雪、降るかしら?」
「さぁ、どうかな。確かに降りそうな空だね」
 何気ない問いかけに返事しながら思う、以前は天気を気にすることなんてなかった。どうしてかなんて愚問。練習メニューを組む横で、「降水確率は75%だ」「今日の放課後は雨になるな」と天気予報も顔負けの分析を蓮二がしていたからだ。今は隣で分析を話し出す参謀もいなければ、動かない足がメニューをこなす事もない。
 ふと母が自分を見ていることに気がついて、幸村はにっこりと笑った。見るものを安心させると真田が評したあの微笑だ。それを眼にした母は泣き笑いのようななんとも言いがたい表情を浮かべた。急に、母にこんな顔をさせているのは自分なのだという思いが込上げてどうにも消えなくなった。
なにか小説の一説が浮かんだ。あれはなんだっただろうか、なにか童話の台詞のような気がする。






 いつの間にか眠ってしまったようで、目覚めると既に外は暗くなっていた。昼間母が開けた窓は閉められて、さらにカーテンも引かれている。しかし、住人の眠っている部屋としては不自然に電灯はこうこうとその存在を主張していた。幸村は、それが己を目覚めさせた原因であると悟る。
「精市、ごめんね。起こしちゃった?」
 覗きこんできた少女の顔に、幸村は自然と頬が緩むのを感じる。ゆっくりと身体を起こそうとすれば、少女は黙ってそれを手伝った。
「いいよ、別に。どうせわざとだろう」
「一応謝っておこうと思って。…おはよう精市」
「こんばんは、
 別々の挨拶を交わすと、2人は目を見合わせてどちらからともなく小さな声で笑った。
「こんな時間にどうしたんだ?」
 幸村は気になっていたことを聞いた。時計を見れば面会時間どころか消灯時間まですぎている。こっそり入って来たにしてはこの侵入者は堂々としすぎている。
 幸村の問いかけに、は待ってましたといわんばかりの笑顔で小さな白い紙を幸村に差し出した。
「夢のチケットよ」
受け取ったそれには【外出許可】の文字があった。




 消灯時間がすぎれば病棟はひっそりと静まり返る。幼い子どもの多い小児病棟では尚更だった。幸村は其処をの押す車椅子に座って通る。許可は下りているのにいけないことをしているような気分になる。といってもそれは罪悪感などではない。友達と悪戯をするようなスリル。子どものような高揚感を幸村は感じていた。車輪に混じって聞こえるの足音も軽やかであり、彼女も幸村と同じ思いなのだと分かる。自分達はこれから非日常の世界へと赴くのだ。
 建物の外に出て、冷たい風にさらされても高ぶった気持ちが凪ぐことはない。透き通るような空には幾千の星が瞬いていた。
「何処へ行くんだ?」
「内緒。すぐ着くわ」
 そうして、しばらく歩く。見慣れた道に入り足音がじゃりを踏むものに変わった頃に、彼女は「着いたよ」と告げた。
 すぐそばの土手の上を線路が走る河原。
「ここは・・・」
 精市が小さく呟くのを、ちょうどやってきた電車の音が掻き消した。
 あの日も同じように電車が通った。部活帰りに仲間達と立ち止まってみた景色。満点の星空にそれを映して不思議に煌めく暗い川。緩やかな坂を上っていく列車。転々と光る車窓の光はまるで童話の中の列車のように見えた。
「精市、前にみんなでこの景色を見たこと覚えている?」
「ああ…覚えているよ」
 搾り出すようにして出した声は震えていたのだろうか。の華奢な指が精市の肩に触れ、痛い程に力が込められる。
「嘘だ。もっと、ちゃんと思い出して」
 同じく震えた声で言われてみれば、頭にうっすらともやがかかっているようにも感じられた。幸村は妙な感覚に囚われていた。身軽な気持ちとでも言おうか。
 ガタゴトと、どこか現実味の欠けた音をたてながら、記憶の中と目の前の列車が過ぎ去っていく。
「精市」
 の呼び声が必死に自分を繋ぎとめようとしていた。
 幸村は隣へ移動していたの腰を抱き、引き寄せた。いつもは恥ずかしがって逃げ出してしまう彼女が、今日は大人しく幸村の腕の中に納まっている。柔らかいその身体に頬を摺り寄せれば、ふわりと微かな香りが幸村の鼻を擽る。
 病室の匂いと雪の匂い。その日感じたもう一つの香りは、ただ幸福に満ちた未来を見せ付けて、何よりも強く訴える。



―生きろ。





銀河鉄道
そして僕は日常に回帰する。